織田信長の墓は、岐阜県岐阜市の「崇福寺(そうふくじ)」にあります。
京都の「本能寺」には「信長公廟」が、同じく京都の「阿弥陀寺」「大徳寺総見院」にも墓があります。
織田信長に関しては、他にも全国15箇所以上の墓所・供養塔があります。
当サイトでは、岐阜という信長に縁深い「崇福寺」の情報をピックアップしています。
神護山崇福寺(しんござんそうふくじ)
墓所 | 神護山崇福寺(しんござんそうふくじ) |
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住所 | 〒502-0817岐阜県岐阜市長良福光2403-1 |
アクセス | JR岐阜駅からバス「国際会議場北口」下車徒歩3分 |
公式サイトは>>神護山崇福寺
織田信長の生没年・戒名・家紋データ
生年 | 1534年(天文3年) |
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没年 | 1582年(天正10年) |
命日 | 旧暦6月2日、新暦6月21日 |
享年(数え) | 49歳 |
戒名 | 総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士 |
家紋 | 織田木瓜(おだもっこう) |
織田信長(おだのぶなが)とは?
尾張の守護大名・織田信秀の嫡男、幼名は吉法師。父・信秀が急逝し、家督を継ぐ。葬儀の席に異様な服装で現れ、位牌に向かって抹香をたたきつけた話は有名。数々の奇行で「うつけ者」と呼ばれていた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元を破る。
永禄10年(1567年)、稲葉山城の戦いで斎藤氏をを破り岐阜に居城を移す。翌年、足利義昭を擁して上洛、室町幕府を再興した。
ほぼ天下を手にしかけた天正10年(1582年)、家臣の明智光秀が謀反を起こし、本能寺の変がおこる。信長は「是非に及ばず(やむを得ない)」と言葉を残し、寺に火を放って自刃した。
織田信長のお墓参り体験「崇福寺」
2022年8月20日(土)に織田信長のお墓がある、岐阜「崇福寺」にお墓参りをしてきました。(※すべて2022/8/20時点の情報になります)
JR岐阜駅からバスに乗車「ぎふ登城きっぷ」
JR岐阜駅に降り立つと・・・
金ピカの織田信長の銅像がありマスクをしていました。(新型コロナ流行中の時期)
JR岐阜駅周辺には、信長の居城として有名な「岐阜城」、他にも斎藤道三の墓があるため、「ぎふ登城きっぷ」を利用しました。
「ぎふ登城きっぷ」は220円区間のバスが乗り放題、「岐阜城」入場券、「金華山ロープウェー」往復乗車券がセットになったお得な切符です。
大人「1,400円」、小人「700円」で購入できます。(2022/8/20時点の情報)
「長良川国際会議場北口」から徒歩3分ほど
JR岐阜駅からバスに乗り、「長良川国際会議場北口」で降りて徒歩3分ほどで「崇福寺」に到着します。
近くには斎藤道三の墓「道三塚」があります。徒歩で行けるので一緒に回るのもオススメです。詳細は以下を参照してください。
崇福寺と織田信長の墓所となった理由
本能寺の変後、信長の側室のお鍋の方が遺品を送り、信長の供養に努めるよう書状を出したお寺が「崇福寺」です。
織田信長父子廟
信長の廟所は本堂裏にあります。信長だけでなく、同じく本能寺の変で自刃した信長の嫡男・織田信忠のお墓でもあります。
「織田信長父子廟(岐阜市指定史跡)」は位牌形の石碑で、父子の法名が左右に並べて刻んであります。
信長の嫡男・織田信忠については、以下を参照してください。
織田信長父子位牌堂
「織田信長父子廟」の右側には、「織田信長父子位牌堂」があります。
この中に父子の位牌が安置されています。
本堂の天井「血天井」
また、本堂の天井には「血天井」があります。本堂の中は、写真撮影がOKでした。
信長の孫・織田秀信が慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍・石田三成に加担。東軍の猛撃にあい岐阜城は落城、この時戦死した将兵の菩提を弔うため、岐阜城の床板を本堂の天井に張ったものです。今でも血痕が付着しているのが見られます。
稲葉一鉄(良通)のゆかりの寺でもある
崇福寺の正門から入ったすぐには、稲葉一鉄が寄贈した梵鐘があります。
稲葉一鉄は、幼少より小僧として「崇福寺」にて修行。父兄が戦死したため、還俗して稲葉家を継ぐ。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣として活躍。
「崇福寺」本堂を見て、「織田信長父子廟」をお参りするまでの時間は、大体30分ぐらいでした。
他にも、岐阜市の戦国武将のお墓参りした旅行は、以下でまとめています。