織田・徳川連合と武田軍の「長篠の戦い」で、長篠城攻城戦の密偵・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の墓は、愛知県新城市「新昌寺(しんしょうじ)」にあります。
他にも愛知県新城市「甘泉寺(かんせんじ)」にも墓が存在します。
当サイトでは、「新昌寺」の情報をピックアップしています。
興国山新昌寺(しんしょうじ)
菩提寺 | 興国山新昌寺(しんしょうじ) |
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住所 | 〒441-1317愛知県新城市有海字稲場2 |
アクセス | JR飯田線「鳥居駅」下車徒歩3分 |
長篠の戦い後、鳥居強右衛門は「喜船庵(後の新昌寺)」に埋葬された。新昌寺近くに「鳥居強右衛門磔の場」があり、碑が立っている。
公式サイトは>>興国山新昌寺
鳥居強右衛門の生没年・戒名データ
生年 | 1540年(天文9年) |
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没年 | 1575年(天正3年) |
命日 | 旧暦5月16日 |
享年(数え) | 36歳 |
戒名 | 智海常通居士 |
家紋 | 不明 |
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは?
天正3年5月21日(1575年)、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った「長篠の合戦」が起こる。
前哨戦となる「長篠城攻城戦」で、1万5千人の武田の大軍に対して、奥平信昌・城主の長篠城の戦力は500人と少なく籠城の末、数日以内に落城必至と追い詰められる。
65km離れた岡崎城の家康のもとに援軍を求める命がけの役目を、奥平信昌の家臣である鳥居強右衛門が自ら志願。
武田包囲網を突破して、岡崎城にたどり着き、援軍の派遣を要請することに成功。この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと鳥居強右衛門は引き返したが、戻る途中に、武田軍に捕らえられてしまう。
武田勝頼から「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と長篠城の味方に伝えたら命を助けると言われた鳥居強右衛門。
鳥居強右衛門は長篠城の近くで「まもなく援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と叫ぶと勝頼は怒り、その場で鳥居強右衛門を磔にした。
鳥居強右衛門の声を聞いた長篠城の城兵は士気を奮い立たせ、武田軍の猛攻から城を守り通すことに成功する。
忠義のため自ら犠牲となった鳥居強右衛門の最期を知った織田信長が、立派な墓を建立させたと伝えられている。