豊臣秀吉の実弟であり、豊臣家の天下統一に貢献した「豊臣秀長(羽柴秀長)」の墓は、奈良県大和郡山市「大納言塚(だいなごんづか)」にあります。
大納言塚(だいなごんづか)
名称 | 大納言塚(だいなごんづか) |
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住所 | 〒639-1015奈良県大和郡山市箕山町14−8 |
アクセス | 近鉄「郡山駅」から徒歩約15分 |
「大納言塚(だいなごんづか)」は、大和大納言と呼ばれた豊臣秀長の墓。土壇の上に五輪塔が立ち、戒名が刻まれている。市指定文化財。
大和郡山市公式サイト>>大納言塚
豊臣秀長の生没年・戒名・家紋データ
生年 | 天文9年(1540年) |
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没年 | 天正19年(1591年) |
命日 | 旧暦1月22日、新暦2月15日 |
享年(数え) | 52歳 |
死因 | 病死 |
戒名 | 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士 |
家紋 | 五七桐(ごしちきり) |
豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)とは?
「豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)」は豊臣秀吉の実弟。秀吉の右腕として活躍。秀吉と同じく、木下姓、羽柴姓、最後は豊臣姓を名乗る。
天正10年(1582年)「本能寺の変」が起きると、秀吉の「中国大返し」に従い、秀長も「山崎の戦い」、1583年(天正11年)柴田勝家との「賤ケ嶽の戦い」に参戦。
天正13年(1585年)紀州征伐では副将、そして同年6月、四国攻略戦では総大将となり長宗我部元親を降伏させ、その功績により100万石の大和郡山城主となる。
後に官位「従二位権大納言」を与えられたことから、「大和大納言」と呼ばれる。
実弟として秀吉に異を唱えることができる人物だったが、天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は郡山城内で病死する。