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田沼意知の墓はどこ?東京都豊島区の萬年山勝林寺

田沼意知の墓はどこ?東京都豊島区の萬年山勝林寺

田沼意次の嫡男で、江戸後期に若くして幕政の中枢を担った「田沼意知」の墓は、東京都豊島区の「勝林寺(しょうりんじ)」にあります。

 

萬年山勝林寺(まんねんざんしょうりんじ)

墓所 萬年山勝林寺(まんねんざんしょうりんじ)
住所 〒170-0003 東京都豊島区駒込7-4-14
アクセス JR山手線「駒込駅」「巣鴨駅」から徒歩約15分

田沼家の菩提寺である勝林寺には田沼意知の墓があり、父・田沼意次をはじめとする一族の墓も並んでいます。

公式サイト>>萬年山勝林寺

 

田沼意知の生没年・戒名・家紋データ

田沼意知の生没年・戒名・家紋データ
生年 1749年(寛延2年)
没年 1784年(天明4年)
命日 旧暦4月2日、新暦5月20日
享年(数え) 36歳
死因 怨恨による刃傷
戒名 仁良院殿孝嶽元忠大居士
家紋 七曜

 

田沼意知(たぬま・おきとも)とは?

田沼意知(たぬま・おきとも)は、老中・田沼意次の嫡男として寛延2年(1749)に誕生。幼少の頃から将軍・徳川家治の側近くに出仕する機会を得て、わずか16歳で将軍に拝謁すると翌年には従五位下・大和守に叙任されます。

その後も異例のスピードで昇進を重ね、奏者番、さらに若年寄にまで抜擢され、父とともに幕政の中心を担いました。田沼時代の重商主義的政策を支える若きエリートと目され、将来を嘱望された人物です。

しかし、田沼家の権勢拡大に対する反発や、田沼政治への批判は強く、天明4年(1784)3月24日、江戸城内で旗本・佐野政言に突然襲撃され、重傷を負います。必死の治療もむなしく、4月2日に36歳の若さで没しました。

この事件は、幕政の暗部を象徴する出来事となりました。暗殺の動機は明確ではなく、田沼政治への反発説や個人的怨恨説など諸説ありますが、幕府は「乱心」として処理しました。

父・意次はこの事件を契機に急速に権勢を失い、田沼時代は終焉を迎えることになります。

 

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