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藤原道長の墓はどこ?宇治陵(うじりょう)京都府宇治市

藤原道長の墓はどこ?宇治陵(うじりょう)京都府宇治市

平安時代中期、藤原氏の「摂関政治」を全盛期に導いた「藤原道長」の墓は、京都府宇治市「宇治陵(うじりょう)」にあります。

 

宇治陵(うじりょう)

墓所 宇治陵(うじりょう)
住所 〒611-0002 京都府宇治市木幡南山畑34-1
アクセス JR奈良線「木幡駅」から徒歩約10分

京都府宇治市に、約350以上の藤原氏とその関係者が埋葬された陵墓群があります。

1877年(明治10年)、宮内省の調査により、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を「宇治陵」とし1号から37号までの番号が付けられた。

32号を「藤原道長」の墓とする説もあるが、誰がどこに埋葬されているかは特定されていない。1号陵を総拝所とし、そばに「藤原氏塋域の碑」が建立されている。

「藤原氏塋域の碑(ふじわらしえいいきのひ)」には、冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実の名が刻まれている。「塋域(えいいき)」とは、墓地のことです。

 

1号陵を近くには藤原道長が寛弘2年(1005年)、藤原氏の菩提を弔う為に建立した寺「浄妙寺」跡がある。

 

藤原道長の生没年・戒名・家紋データ

藤原道長の生没年・戒名・家紋データ
生年 康保3年(966年)
没年 万寿4年(1028年)
命日 旧暦12月4日、新暦1月3日
死因 病死
享年(数え) 62歳
戒名 不明
家紋 下がり藤(さがりふじ)

 

藤原道長(ふじわらのみちなが)とは?摂関政治で最盛期を築く

「藤原道長(ふじわらのみちなが)」は、平安時代中期の公卿。「摂関政治」で藤原氏の最盛期を築いた人物。

道長は藤原兼家の四男として生まれ、幼少期から家柄と知性を活かし、早くから政治の舞台で頭角を現す。長徳2年(995年)「長徳の変」により、兄・道隆の嫡男・伊周が失脚、道長は藤原家の実権を握る。

道長の政治的手腕は卓越しており、一条天皇、三条天皇、後一条天皇の三代に渡り、自分の娘たちを皇族に嫁がせる「一家三后」により藤原氏の最盛期を築く。

藤原道長が詠んだ以下の「望月の歌」は、権力と栄華を象徴する有名な和歌として残された。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないよう、すべてが満足にそろっている)

道長は晩年に出家、万寿4年(1028年)に62歳で死去。道長の死後も、藤原氏の支配は12世紀初頭まで続いた。