武田信玄の重臣で、武田四天王の一人・山県昌景(飯富)の墓は、山梨県甲州市「天澤寺(てんたくじ)」にあります。
他にも愛知県新城市や、武田信玄の菩提寺「恵林寺」にも墓があります。
当サイトでは、飯富家と山県家の菩提寺である「天澤寺」の情報をピックアップしています。
巨鼇山天澤寺(きょこうさんてんたくじ)
菩提寺 | 巨鼇山天澤寺(きょこうさんてんたくじ) |
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住所 | 〒400-1113山梨県甲斐市亀沢2609 |
アクセス | JR中央本線「竜王駅北口」からタクシーで約15分 |
飯富家と山県家の菩提寺「天澤寺」に、山県昌景の墓碑があります。山県昌景は「長篠の戦い」で討死にしますが、遺体を持ち帰り「天澤寺」に葬られたと伝わります。
他にも兄・飯富虎昌の墓碑と位牌、昌景の子・山県昌満の位牌が本堂に安置されます。
公式サイトは>>巨鼇山天澤寺
山県昌景の生没年・戒名・家紋データ
生年 | 1529年(享禄2年) |
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没年 | 1575年(天正3年) |
命日 | 旧暦5月21日、新暦6月29日 |
享年(数え) | 47歳 |
戒名 | 好雲喜公大禅定門 |
家紋 | 桔梗(ききょう) |
山県昌景(やまがたまさかげ)とは?
武田信玄の父・信虎の家臣「飯富道悦(おぶどうえつ)」の息子とされる。早くから信玄に仕え、後に武田家の重臣となる。
1565年(永禄8年)信玄の嫡男・武田義信と飯富虎昌の謀反を阻止した功により、昌景は山県虎清の名跡を継ぎ山県昌景と名を改めた。その時に「赤備え」を引き継ぎ、武田最強部隊の代名詞となる。
1572年(元亀3年)「三方ヶ原の戦い」において家康本陣に突進、一時は家康に自害を覚悟させた。1575年(天正3年)「長篠の戦い」では織田・徳川連合軍に敗退、銃弾を浴び討ち死にした。