江戸時代後期の戯作者「恋川春町」の墓は、東京都新宿区の「成覚寺(じょうかくじ)」にあります。
本名は倉橋格(くらはし・いたる)、戯作者としての戯号が「恋川春町(こいかわ・はるまち)」です。
十劫山無量寿院成覚寺(じゅうこうざんむりょうじゅいんじょうかくじ)
墓所 | 十劫山無量寿院成覚寺(じゅうこうざんむりょうじゅいんじょうかくじ) |
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住所 | 〒160-0022 東京都新宿区新宿2-15-18 |
アクセス | 地下鉄丸ノ内線「新宿御苑前駅」から徒歩約5分 |
東京都新宿区にある「成覚寺」は浄土宗の寺院で、江戸時代の文化人や遊女の供養塔などもある歴史ある場所。この寺の墓地の一角に、恋川春町の墓碑があります。
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恋川春町(倉橋格)の生没年・戒名・家紋データ

生年 | 1744年(延享元年) |
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没年 | 1789年(寛政元年) |
命日 | 旧暦7月7日、新暦8月27日 |
享年(数え) | 46歳 |
死因 | 不明 |
戒名 | 寂静院廓誉湛水居士 |
家紋 | 不明 |
恋川春町(倉橋格)とは?
恋川春町(こいかわ・はるまち)は、江戸時代中後期の戯作者・絵師で、本名は倉橋格(くらはし・いたる)です。紀州徳川家家臣・桑島家の次男として生まれ、後に伯父の倉橋家(駿河小島藩士)の養子となりました。
武士として仕えながらも、朋誠堂喜三二などの戯作者と交流を深め、文芸や絵の世界に惹かれていきます。生活のために副業的に筆を執ったともされ、黄表紙の世界に足を踏み入れました。
代表作『金々先生栄花夢』では、夢オチを通じて武士の堕落や金銭主義を痛烈に風刺し、黄表紙文学の先駆けと称されました。これにより春町は戯作界の人気作家となります。
やがて始まった松平定信の「寛政の改革」により風刺作品が弾圧されると、春町も標的となります。黄表紙『鸚鵡返文武二道』が定信の政策を皮肉ったため、寛政元年(1789年)に幕府から呼び出されますが、病を理由に出頭を拒否。同年4月に隠居し、7月7日に46歳で死去しました。急死の背景から、自死の可能性も指摘されています。
関連墓所
- 蔦屋重三郎の墓(正法寺)