豊臣秀吉の側近で五奉行の一人「石田三成」の墓は、京都府京都市「大徳寺三玄院(だいとくじさんげんいん)」にあります。
龍寶山大徳寺三玄院(りゅうほうざんだいとくじさんげんいん)
名称 | 龍寶山大徳寺三玄院(りゅうほうざんだいとくじさんげんいん) |
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住所 | 〒603-8231京都府京都市北区紫野大徳寺町76 |
アクセス | バス「大徳寺前」から徒歩約5分 |
※原則非公開
「大徳寺三玄院(だいとくじさんげんいん)」は、天正17年(1589年)に春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖とし、浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)の3名によって建立。大徳寺の西側に「石田三成公御墓地」という石碑が立つ。
石田三成の生没年・戒名・家紋データ
生年 | 永禄3年(1560年) |
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没年 | 慶長5年(1600年) |
命日 | 旧暦10月1日、新暦11月6日 |
享年(数え) | 41歳 |
死因 | 処刑 |
戒名 | 江東院正軸因公大禅定門 |
家紋 | 大一大万大吉(だいだいまんだいきち) |
石田三成(いしだ・みつなり)とは?
「石田三成(いしだ・みつなり)」は1560年(永禄3年)近江国・石田で、石田正継の三男として生まれる。幼名「佐吉」。
近江長浜城主だった豊臣秀吉が鷹狩りの帰り、近くの寺で茶を接待した「佐吉」の心配りから才能を見抜き、家臣に取り立てたのが、後の「石田三成」という説がある。
三成は秀吉の側近として中国征伐や小牧・長久手の戦いに参加。秀吉が関白に就任すると、豊臣政権の政治を行う五奉行の一人として活躍。
秀吉が亡くなると、石田三成を中心とした文治派と、福島正則・加藤清正などの武断派と対立が深まる。
1600年(慶長5年)、徳川家康との天下分け目の「関が原の戦い」で、三成率いる西軍(豊臣側)は、小早川秀秋の裏切りなどにより、家康の東軍に敗れる。
捕縛された石田三成は小西行長と安国寺恵瓊と一緒に大阪で市中引き回しのうえ、京都・六条河原で処刑される。