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平賀源内の墓はどこ?東京都台東区橋場の旧総泉寺跡地

平賀源内の墓はどこ?東京都台東区橋場の旧総泉寺跡地

江戸時代中期の博学多才な発明家・本草学者として知られる「平賀源内」の墓は、東京都台東区橋場2丁目の「旧総泉寺跡地(きゅうそうせんじあとち)」にあります。

この墓所は国指定史跡として保存されており、現在は住宅街の一角に位置しています

 

平賀源内墓(旧総泉寺跡地)

墓所 旧総泉寺跡地(平賀源内墓)
住所 〒111-0023 東京都台東区橋場2丁目22-2
アクセス 東京メトロ日比谷線「南千住駅」から徒歩約12分

この墓所は、もともと曹洞宗の寺院「総泉寺」の境内にありましたが、関東大震災後の昭和3年(1928年)に寺院が板橋区へ移転した際、平賀源内の墓のみが現在地に残されました。

 

昭和18年(1943年)には国の史跡に指定され、現在も築地塀に囲まれた形で保存されています。開錠時は見学可能です。

台東区公式サイト>>平賀源内墓

 

平賀源内の生没年・戒名・家紋データ

平賀源内の生没年・戒名・家紋データ
生年 1728年(享保13年)
没年 1780年(安永9年)
命日 旧暦12月18日、新暦1月24日
享年(数え) 52歳
死因 獄中での病死
戒名 智見霊雄居士
家紋 不明

 

平賀源内(ひらがげんない)とは?

平賀源内(ひらが げんない)は、江戸時代中期に活躍した多才な人物であり、発明家・本草学者・蘭学者・戯作者・画家など、数多くの肩書きを持つ江戸の奇才です。博識と行動力をあわせ持ち、江戸の知的文化を体現した先駆者として、「和製ダ・ヴィンチ」とも評される。

1728年、讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市)に生まれ、若くして長崎に渡ってオランダ語や西洋医学を学ぶ。のちに江戸へ出て活動の場を広げ、蘭学・鉱山開発・工芸・文芸など、あらゆる分野で先進的な試みに取り組んだ。

とくに有名なのは、静電気発生装置「エレキテル」の復元で、西洋科学技術の導入と普及に大きく貢献。鉱山技術の改良や産業振興にも尽力し、将軍家からも重用されるなど、当時の知識人の代表格として広く知られるようになる。

文筆にも長けており、風刺的な小説『風流志道軒伝』や随筆『根無草』などを発表。町人社会や知識階級の風俗・思想を洒脱に描き、戯作者としても一流の評価を得た。また、本草学の研究にも取り組み、薬草や鉱物に関する記録を数多く残している。

しかし、その反面で生活は常に多忙を極め、金銭問題や人間関係のトラブルも抱えることが多かった。1780年、口論の末に同居人を死なせてしまい、過失致死で投獄。その獄中で病に倒れ、52歳で波乱の生涯を閉じた。

 

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