江戸後期の徳川幕府第10代将軍「徳川家治」の墓は、東京都台東区の「寛永寺(かんえいじ)」にあります。
東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)
墓所 | 東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ) |
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住所 | 〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-14-11 |
アクセス | JR山手線「鶯谷駅」から徒歩約7分 |
寛永寺は江戸幕府歴代将軍の菩提寺の一つで、徳川家治を含む6人の将軍(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)の墓所があります。
境内には将軍霊廟があり、家治の墓もその一角に築かれています。
公式サイト>>東叡山寛永寺
徳川家治の生没年・戒名・家紋データ

生年 | 1737年(元文2年) |
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没年 | 1786年(天明6年) |
命日 | 旧暦8月25日、新暦9月17日 |
享年(数え) | 50歳 |
死因 | 病死 |
戒名 | 浚明院殿贈正一位大相国公 |
家紋 | 徳川葵(とくがわあおい) |
徳川家治(とくがわいえはる)とは?
徳川家治(とくがわ・いえはる)は、江戸幕府の第10代将軍です。父は第9代将軍・徳川家重、母はお幸の方(法号は自性院)です。幼少期は祖父・徳川吉宗のもとで世子として厳しく教育され、1760年(宝暦10年)、23歳で将軍に就任しました。
家治の治世は「田沼時代」と呼ばれ、老中・田沼意次を登用して商業を重視した政策が進められました。具体的には、株仲間の公認や長崎貿易の拡大などにより経済発展が図られましたが、その一方で賄賂政治への批判も強まりました。また、天明の大飢饉や浅間山の大噴火といった大規模な自然災害にも見舞われ、幕府の権威は大きく低下しました。
家治は文芸や娯楽を好み、西洋文化や蘭学にも一定の関心を示した人物として知られます。性格は温厚で人望もありましたが、将軍としての権力を田沼意次に大きく委ねたため、指導力については評価が分かれています。ただし、田沼を重用した先見性を評価する見方もあります。
関連墓所
- 田沼意次の墓(勝林寺)